障がいから照らす人の可能性

可能性照らし家 西井あやな。 人の持つ可能性にわくわく。 大人になってから視覚障がいを持つ。 視覚障がいを持って働くこと、子育てすること、悔しさ・不安・喜びを通しての 自分の気づきと経験を惜しみなくできるだけわかりやすく表現します!

社会的マイノリティ: 「マイノリティだから、こうしなきゃ!」にいつの間にかなってた私

社会を見た時に、建城者と呼ばれる人々に対して障がい者と呼ばれる人々はマイノリティ 少数派と称される。
障がい者と呼ばれる人々の中でも、視覚に関する障がいを持つ人々となると数が絞られる。
さらに、視覚障がい者と呼ばれる人々でも、親という立場を経験したことのある人、となるともっと少ない。

私は障碍者手帳を持っている。
障碍者手帳の視覚障害という分類である。
さらに、子育てをしている。

健常者>(視覚)障がい者>育児経験

マイノリティ中のマイノリティのマイノリティ。

全国でも、視覚障がいを持ちながらパパやママの役割を担っている人はかなり少ないだろう。
特有の困りごと、こんな時どうしたらいいんだろう?ってことは出てくる。
母数がかなり少ないがゆえに、その少ない人たち同士の中での先輩経験者の体験談は参考になる。
そんな時に、先輩ママパパのグループがあって相談できるとかなり救われる。

例えば、子どもが寝返りができるようになってハイハイができるようになって、歩けるようになって。
成長と共に行動範囲が広がってくると、子どもがどこにいるのかの把握が難しくなることは見えない・見えづらい親の代表的な困りごとの一つ。
奥内であればハイハイの時にペタペタ音が拾えたり、歩き始めても足音が拾えたりもするのだが、
じゅうたんがひかれていたり、屋外となるとハードルがあがる。

この困りごとを、次のように対応した当事者は複数いるようだ。

低年齢のうちは子どもに鈴をつける。
足首でも胴まわりでも、本人が不快にならないような安全な場所に音の鳴るものを着けてもらうことによって、こちらの相手の場所の把握を助けになる。

ナイスアイデア

先人の知恵。しかもかなり有効。

私の頭の中には、ある程度見ることが難しい親は子どもに音の鳴るものを着けるものだ、という教科書が出来上がる。

この教科書を持って、先日知人の家に娘と遊びに行った。
先天性全盲のご夫婦と見えているお子さんが2人の4人家族。

娘の片方の足首にはお手製の鈴のついたゴムバンドを装着。準備万端。

そのご夫婦に、
「ちゃんと鈴も着けてきましたー♪」とアピール。

「うちは鈴着けなかったなぁ。」

・・・えぇ??!!
わずかでも視野と視力があって、お子さんの位置をなんとなく把握できるならまだしも、
先天性の全盲の方がどうやってまだ言葉でのコミュニケーションが難しい小さい子たちの位置を把握していたのか。
私にとっては、アンビリーバボー!

「え、じゃあどうやってされてたんですか?」
「とにかく呼んだら返事しろってのは徹底してたなぁ。」

・・・なるほど。ある意味ごもっとも。
なんにしろ、このご夫婦は鈴に頼らずにここまで育ててきたのだ。
視覚障がいがあっても鈴をつけずに何とかなることもあるのだ。
鈴はあくまで対応策の一つであって、それをしなければどうにもならないことではないのだ。

自分は多くの人とは違う事情を抱えているから、何か特別なことをしなければ、
あるいは、当事者ならば何か工夫をしているはずだ、
こんな思い込みが出来上がっていた。

でも、

道具でも工夫でもない。

呼ぶ、声を掛ける → へんじする(音を出す)

視覚障がいがあろうがなかろうが、人と人とのいたってシンプルなコミュニケーションでこのご夫婦は状況をクリアしていた。

このご夫婦の暮らしには、他にも 私の中に出来上がっていた当事者としての色んな思い込みが覆された。

母数が少ないが故に、先人の知恵は参考になるし有難い。
これは事実。
だが、それが全てではない。

当事者だからって、選択肢を当事者ではない人と同じように持つことができる。
もっと自由になっていいのだと、その日 そのご家族のあり方に触れて気持ちが楽になった。

見える世界、見えない世界?

いやいや、世界は一つ。

同じ世界に一緒に住んでいるのだ。