障がいから照らす人の可能性

可能性照らし家 西井あやな。 人の持つ可能性にわくわく。 大人になってから視覚障がいを持つ。 視覚障がいを持って働くこと、子育てすること、悔しさ・不安・喜びを通しての 自分の気づきと経験を惜しみなくできるだけわかりやすく表現します!

人も物も、ベストパフォーマンスを引き出せることを知りながら今を楽しもう!

 

納豆。

・・・え、いきなり納豆??(笑)
嫌いだよー、苦手だよー、なんて言わないでぇぇぇ。

納豆を好んで召し上がる方、どのように納豆を頂いていますか?

単独でもよし!
添付のたれと混ぜてもよし!
からしを入れてもよし!
かつおぶし、七味などかけるもよし!
ねぎをちょい足ししてもよし!
のりやみょうが、キムチなど他の食材と混ぜてもよし!

私が今日注目したいのは、その食べ方なんです。

よく混ぜると納豆キナーゼが働き、栄養価もうま味も高まると言われています。

つまり、好みにもよりますが、食べるのに少し手間をかけた方が素材のパフォーマンスを引き出せる、ということ。

私はね、ちょっと面倒くさくなって、しかもちょっと急いでいたけど植物性蛋白質を摂りたくて、
あまりかき混ぜずに納豆食べたことがあったのです。

うん。これでもおいしい。私はね。

だけど数日後、100回を目途にまぜまぜして食べたのです。
そうしたらね、やっぱりこっちの方が舌ざわりとかとろみとかうま味が増して、しかも栄養価までこっちのが高くなる。
ちょっと手間こそかかれど、
やっぱりまぜまぜしてあげることが納豆のベストパフォーマンスを引き出してあげるってことなのだろうな、と思ったのです。

そして、
他の食材も、そのままでもおいしいけど、ちょっと手間をかけることでその子のベストパフォーマンスを出せる扱い方があるなぁって改めて思って。
そしてそして、
ほら、私って飛躍して考えるの好きだから(笑)
道具やツールも、使い方次第。

そして人も。
障がいがあるならなおさら。
コミュニケーション次第、接し方次第、教え方次第、環境の整え方次第だなぁって思ったのです。

納豆は、よくまぜてもまぜなくても、まぁどっちでもいいんです。
本人の好みの食べ方をすればいい。

物やツールも、安全上問題なければ
説明書通りに扱わなくてもいいと思う。

でも人は、
本人の 好き と 得意 が重なったところで 能力を発揮できることが、
結局本人含めて 全員まるごとハッピー!

障がいを持つ人と接することは、○○○! 多様性推進を通して実践する自己啓発

障がいを持つ人と食事をしたり、お茶したり、打ち合わせしたり、何か時間を共にされたことはありますか?
私自身、特に自分とは違う視覚障がいではない障がいをお持ちの方と接する機会を持つ度に、思うことがあります。


自分の枠を超えてる~!!!


ここで私が書いた「枠」は、「経験」や「知識」とも言い換えられると思います。

生まれつき両手の指が数本欠けていて、足も義足の方とランチをご一緒した時のこと。
その方のは両手とも指が2本か3本くらいずつで、手のひらの形状も多くの人が想像する"手の形"とは違っていました。
(触らせてもらいました!)

お会計の場面で、その方がご自身のカードで支払いをされたんです。
私は自分の分をお支払いしようとお店の前で、確かお札を手元に出して待っていました。
その時たまたま小銭を持ち合わせてなかったのです。

その方が出てきて、
「すみません、細かいのがなくて・・・。」
私がお支払いしようとすると、
次の2つのことを言われました。

①小銭を扱うのが大変だから小銭は要らない
②テーブルも何もないところで、立って、お財布を開いてお金をやり取りするのは大変だから、後で


ががが~~~ん。。。


私の頭の中にあったのは「自分の分を払わなきゃ!」、このことだけで、
相手の状況を想像することが全く出来ていなかったんです。
言われて初めて、
・お財布を開くこと
そこから小銭やお札を取り出す/しまう
これらの作業の複雑性に気づかされました。


本当にまだまだだなぁ、と思いました。
同時に、とてもありがたい経験をさせて頂いたな、と思ったのです。

他にも、違う身体的特性を持った人のことを今思い浮かべているのですが、
あの人は、○○してる時、一体どうしてるんだろう?
あの人のコミュニケーションで受け取る世界はどんななんだろう?
と想像を試みるものの・・・
絶対、事実は私の想像を超えてるんです。絶対!
自分の経験がないんだから想像なんて及びもしない。

発達障がい・知的障がいを持った方やお子さんをお持ちの方は、
自分の常識とは違うことが毎日起こっていると思います。
大変だと思います。


でもね、やっぱりいずれも、当事者と接することで、自分の経験が増えて、
その度に自分の選択肢が増えていってる、
私はそのように思うのです。


食事の時、どこかに外出する時、私はサポートを頂くことがあります。
障がいを持つ人へのサポートって、人助け、でしょうか。
もちろん、人助けの意味合いもあります。

でもね、どうでしょう。
相手のためにしている行動のようで、
自分にとっては、"脳トレ"になってませんか??


私は、学生時代は杖を持たずに移動し、自転車に乗り、本を読み、勉強していました。
そんな私は、今、この視覚障がい、という自分の経験を通して、無理やり(?!)いろんな引き出しを引き出して生きてます。
毎日"脳トレ"です!

それと同じように、私をサポートしてくださってる方の様子から感じられるのは、
「あ~、私と接することで、普段使ってない部分の脳みそ、フル回転してるなぁ~。」
ってことなんです。

こうやってとらえてみると、
障がいを持つ方と接するの、ちょっと楽しくなってきませんか??

少なくとも、私は、
私と一緒に過ごすことを楽しいと思ってほしい、
そういう人と一緒にいたいなって思います

自分に点数をつけるとしたら何点ですか??  

私が子どもの頃の教育テレビ、つまり現在のEテレ チャンネル。
もともとの教育プログラムに、SGDs目標に沿って、多様性社会の視点や環境保全を意識したコンテンツを取り入れてバージョンアップした番組が多い。

『お母さんといっしょ』だけじゃなくて『お父さんといっしょ』があれば、
過敏症や発達障がいの特性と、その特性への寄り添い方をテーマにした番組がある。
番組の登場人物がひとり親家庭だったりもする。
プリンカップやトイレットペーパーの芯が主人公のコンテンツは我が家の子どもがとてもお気に入りだし、
エコロジー活動に取り組む企業・団体をクローズアップした特集もある。


私は未だに子どもの頃に見た番組のいくつかのキャラクターや歌を覚えている。
テレビを見ない家庭も増えてきているとはいえ、
それでも朝や夕方の家事をしている間のテレビが子守訳となっている家庭もまだまだあるだろう。
親しみやすいキャラクターや自分の身の回りにありそうな角度からの話題提供で、まさにSGDs教育の浸透が期待される。

テレビだけではない。
学校でも、以前よりも持続可能な環境・物・人を育む教育が導入されている。
今と昔、他にもたくさん変化はあるが、
福祉教育や多様性教育、環境に配慮した考え方が進んだ環境の中で育った子ども達が大人になって活躍する社会は一体どのようになるのか、
私が想像できる域を超えているし、楽しみでもある。


Eテレおじゃる丸』というアニメ番組のエンディングテーマ曲として今月から流れている曲が私のお気に入り。
歌詞がすごいなぁ。
こんな全員を、それこそまるっと応援して肯定してくれるような歌は私が子どもの頃にはなかったと思う。
工藤静香さんも好き。

ここに歌詞を抜粋させてもらうので、気になった方はぜひ検索して聴いてみてくださいな♪
******
『丸』 歌・工藤静香さん

走るから感じられる風邪もありますし
歩くから見つけられる花もありましょう

どのみちを選んでも不正解なんてないのです
人生は一度だけ 比べられるものはないのです

人と違うなら胸を張って 同じなら肩を組んで

君も丸 僕も丸 あなたも それに私も丸
時代はとうに多様性 右へ倣わないで
亀も丸 うさぎも丸 それを見守るみんなも丸
それぞれが世界でたった一人の かけがえなき120点

涙から生まれてく笑顔もありますし 
弱いから手にできる強さもありましょう

どの君に出会っても無駄なことなんてないのです
人生は何度でも 山があって谷があるのです

ピンチはチャンスだ腕が鳴るね 大丈夫 顔上げて
 
君も丸 僕も丸 あなたも それに私も丸
生きてるだけで努力賞 たまに思い出して
パパも丸 ママも丸 それを見守るじいじもばあばも丸
それぞれが自分を頑張っている
紛れもなき120点

ぶつかりあうよりも 無理におしつけあうよりも
認め合い 受け入れ合えたなら きっと幸せ

今日も丸 明日も丸 明後日もし明後日も丸
未来は優に可能性 全員大成功

君も丸 僕も丸 あなたも それに私も丸
それぞれが世界でたった一人の 
かけがえなき120点
偽りなき120点
******

120点ですって!!おめでとうございます☆乾杯!

子育てから学ぶ360度の伸びしろ "今は、こういう時期"

保育園にお世話になり始めてから3年目。
最近特に、娘の変化・成長を感じる。

入園当初、怖がりで石橋をたたいて渡るタイプかのように思われた娘。
いつの間にか、公園のベンチによじ登ってジャンプしたり、
すべり台をリピートしたり、
公園遊具のボルダリングに挑戦しようとしたり、
屋内のソファでも背もたれによじ登ってすべり台ごっこをしたり、
私を四つん這いにさせて、私の背中に乗って立ち上がってポーズを決めて、
どちらかというと活発さんに傾いている。

虫が嫌いで、絵本のてんとう虫さえこわがっていたのに、
今月急に、おともだちがつかまえてきただんご虫をつんつんできるまでになった。
・・・と思ったら、その翌日からはだんぼ虫をわしづかみ(!)にしているそうで、今やだんご虫探しに夢中。
園で一番だんご虫を触れる子として頭角を現しているらしい。
(私は・・・触れない。。。内心どうしよう、である)

離乳食では口にしていた納豆も、
しばらくあげていなかったら拒否するようになり、
だけど最近私がかき混ぜた納豆を納豆だけでパクパク口にして喜んでいる。

M字に反りあがったおでこをちょっと心配していたのだけれど、
娘の場合は最近になっておでこの上でちょんまげ結びをしてもOKな程度には潤沢な毛髪のハエ具合が観察できる。

一つ上の学年のお友達が大好きで、毎日その子にくっついて遊んでいた。
その子が卒園してしまったらどうなってしまうのだろう、と保育園の先生と一緒に心配していた。
蓋を開けたら、むしろ最高学年になってとってものびのびと同学年のお友達と仲良く楽しく過ごしてくれている。

どれもありがたいケースで、
子どもも人、人は本当に千差万別。
小学生高学年、中学生になっても野菜を全く食べなかったり、
小学校に上がりだしてから、発達障害のような症状が見受けられたり、
いろんなケースがあることも承知している。

私が今回娘の変化をいくつか経験して思ったのは、
なかなか直面していると難しいのだけれど、長い目でとらえてみようとすること、
「今は、こういう段階・状況なんだ」と暫定的にとらえること
これが心のゆとりを生むなぁと。
初めての子育てで、
どうしても毎日起こる出来事が確定事項のように思えて一喜一憂していた私にとって
今、やっと、
「あ、本当に長い目でとらえよう。どうなってくかまだわからないんだから」
と思えるように少しなったかなと思う。

いや、待てよ。
小さい子は特に成長盛り。
大人だからという理由だけで
今までの自分の経験則とか社会の価値観、近しい人の価値観だけで
ダメだぁ~
できない~
無理だ~
こわい~
やめよう~
と思ってしまってきたことって、意外とたくさんあるように思う。

本当は大人だって、もっと言えば障がいがあったって
「今は、こういう状況なんだ」の視点を持って
そこから
じゃあ今何ができるかな
こうなりたいから少しずつこれやってみよう、
って前向きな変化をもっともっと見込むOKを自分に出してあげてもいいんだと思う。

私が今
「今はこういう状況なんだよ、でも大丈夫だよ」と言ってあげたいのは過去の私自身。
不安だらけの毎日を送っていた妊娠中の私。
自分は他の人のようには見えないんだ、とわかった時の私。
変化に対してどちらかといえば苦手で、クラス替えの前の晩はなかなか寝付けなかった私。

「今は、こういう状況なんだよ、でも大丈夫」
そんな視点を持てていたら、もっともっと瞬間瞬間を楽しめたよなぁ。

今からでも遅くはないぞ。

PWDAって聞いたことありますか?? ~障がい表記について~

日本では、「障がい」の表記について"がい"の字をひらがな表記するのがもっともスタンダードとなっています。
かつては、「障害」と表記していましたが
・この"害"の字があたかも当事者本人が有害な存在であるとのイメージを誘発する可能性があること
・"障害"があるとすれば、それは社会システム(制度や物理的な建物・道路など地域の環境)の方に存在するという考え方
これらの考えが主流となって、「障がい」と表記するのが一般的(多数派)となってきました。

正直なところ、私自身は「障害」でも「障がい」でもどっちでもいいかなと思ってます。
表記・表現を変えるよりももっと本質的なことの方が大切だなと思っているからです。
ただ、ことばや表現方法はとても大切だと思うし、「障害」の表現方法を用いることで傷つく人がいるならば、
「障がい「の方を使いたいな、と思います。

そうそう、私、視覚障がい者になってからスキーをしたんです。
ブラインドスキーと言って、当事者の前後をサポーターのスキーヤーが滑走し、
前後どちらかからスピーカーの声で方向を誘導して楽しむスポーツです。
ゲレンデでは、ブラインドスキーヤーもサポーターもウェアの上にゼッケン(ビブス)を着用します。
周囲への注意喚起が目的なのですが・・・。
ある団体のプログラムに参加した時、当事者のゼッケンには「盲人」と大きく書いてありました。
当時、見えづらいながらも、今よりも目でとらえられる範囲の広かった私には、この「盲人」ゼッケンを装着するのにとても抵抗感がありました。
この"盲"という漢字、つくりがとっても悲しい表現をしているなぁって。
心が突き刺さるようでした。
プログラムツアー終了時、私はこのことについて主催者にフィードバックをして、翌年からゼッケンの表記が変更になりました。

かつては、視覚障がい当事者団体の名称に"盲"の表記が使われているケースもいくつか見られましたが、
元号が令和になったころからでしょうか、名称変更されている団体が多いですね。
この"盲"という字に抵抗感を覚える人は私だけじゃなかったんだなー、と思いました。

さて、ここで、英語表現についてもみてみたいと思います。

PWD: People with Disability

この表現が使われることが多いのですが、
一方、日本語と同じように、"Disability"の単語を用いることに懸念を示す人も一定数います。
なんてったって、Ability(能力)を否定語disを使って打ち消したような成り立ちになっている単語ですから、不快感を示す人は少なくないでしょう。

近年では、PWDが発展して、
PWDA:  People with Different Ability
もしくは
PWDA: People with Diverse Ability
とあらわすこともあるようです。
Different Abilityは、普通とは違った能力、 さらに Diverse Abilityは多様な能力 をあらわした表現です。
・・・なるほど~!
考えましたね!!

とも思うのですが、
率直に。
もうDiverse Abilityまでいってしまうと、そもそも、障がいのあるなしに関わらず、人類誰でもみーんな、多様な能力が備わっているよね?!
もはや、障がいのある人を特定した表現以上の言葉になっているなぁと思います。

発想は素晴らしいと思うのです。
特性・特徴を持つ人々を分類する表現が必要な場面ももちろんありますが、
そもそも、人と人の境界線の高さが低くなっているってことなのかなーブラインドスキー

と私は思いました。

 

講演会にご参加いただいた方からの感想に思わず「わかってる~ぅ!」と大喜びで共感した話

先日お声がけいただいてとある企業の多様性推進イベントにパネリストとして参加させていただいた。
そこで私は自分の働き方の紹介の一つとして、普段使用してい
る音声読み上げソフトを用いたパソコン操作を披露した。
私と同じ環境を体感してもらう目的で、パソコンの操作音を任意で目を閉じてもらって聴くことに集中してもらうのだ。
 
近年では、何事も「早く」「効率よく」消化することが求められがちで、
動画などの素材も倍速再生する人が増えていると聞く。
こうなってくると、私のパソコンの操作音を聞いてもらっても一昔前ほどの驚きは引き出せないかもしれないが、
それでも、私の設定している読み上げ速度は「早い」。
 
客席に座られていたとある企業の社長さんが、私の再生した音を聴いてこうおっしゃった。
 
「人間の潜在能力って素晴らしい!!」
 
・・・いや、あなたが素晴らしいよ、社長さん!
その目の付け所、、あっぱれだ!
 
正直、何度も私は自分の講演で音声読み上げの体感を導入している。
あくまで知ってもらうこと、が目的だった。
 
そしてこの社長さんは、
・私がもともとは目を優先的に使って生活してきたこと
・後天的にパソコンを全て音で操作する手段を身に着けて活用していること
この2つの背景を十分に受け入れ、想像したうえで次のような感想を持った。
 
 
音だけで操作ができるまでに技術革新が進んでいるんだ!
人は誰でもみな、
パソコンの画面を見なくても、スマホの画面を見なくても
バイスを操作できる可能性を持っているんだ!
人には使ってないけど眠っている力があるんだなぁ!
 
 
そうなのよ、そうなのよ。
人って本当にすごいのよ~!!
 
 
私の場合、多くの人が優先的に活用している視覚をほとんど使わないことで、
きっと見えていたら行っていなかった方法で仕事や生活をしている。
手段を探して掘り起こしたり、感覚を鍛えたりする作業をする機会が多い。
そして、たいていのことは、何かしら、適っている。
 
 
きっと、建材能力は氷山の一角(全体の約5%)と例えられている、
まさにその通りで、
今必要ないから使えなくなっている、
本来は使えていたけど眠っている、
そんな感覚や力が私にもまだまだたくさん、自分の中に眠っているのだと思う。
そう、みんな、そうなのだと思う。
 
 
人は可能性の塊だ。
 
このことを身をもって体感し、
人様にわかりやすい形で表現できる場を与えられている私は
とっても幸せ者だ。

 

私が実践した障害対応策⑤☆ 分解してみよう! 一つの業務は複数のステップから出来ている。できない を増やすより、できる を増やすために ひとまとまりの業務をステップごとに分解してみると司会が拡がってくる。 これは、育児の 子どもの成長過程をサポートするのと似ているかもしれない。 全部をまるっとできなくても、部分的にできるところを任せてみる・難しいところは一緒にやる or できる人がやる のだ。 当時、私は研修関連の業務に携わっていた。 定期的な研修を開催する上で必要なことは: ・年間の研修計画を管理す