障がいから照らす人の可能性

可能性照らし家 西井あやな。 人の持つ可能性にわくわく。 大人になってから視覚障がいを持つ。 視覚障がいを持って働くこと、子育てすることを通しての自分の気づきと経験を惜しみなくできるだけわかりやすく表現します! 講演やお話会お任せください。ご相談やご依頼は、0707gifts@gmail.comまで、@を半角@に変えて送信頂けます様お願いいたします! 

私の育児x視覚障害の経験からの気づき☆ じぶん軸を育もう! 自分自身を生きていますか?

私は、子どもに主体性を持った生き方をしてほしいと常日頃から願っている。
自分の子どもは自分にい一番近く、親である私の関わり方が大切なので特にそう思うが、
基本的に私は、自分も含め世の中の人誰もが
主体的な生き方ができるといいなと思っている。

今振り返ると、
子どもの頃、私はどちらかというと必要以上に手と心を掛けられて育ったと思う。
手も心もかけてもらったことはまさしく愛情だしよかれと思ってのことだろう。
それはとても有難いが、少し度を超えると弊害も出てくる。

・自分に自信が持てない。
・他人に任せられない。
・自分の好きなものが何かわからない。
・人のせいにしてしまう。
・周りの目を気にして周りに評価されるようなことを選んでしまいがち。

これらは全て過去の私。

さらにはどちらかといえば優等生タイプだったので、日本の学校での勉強での正解や評価を得られるように行動してきた節があった。

見えづらさと共に、今まで求めてきた周りからの評価を得るどころか、標準的な読み書きが難しくなった。
デスクワークも日常動作も、今までのやり方と同じでは通らないことも出てきた。
今まで常に「誰か」と比べてきた自分が浮き彫りになった。
そんな自分のことをなかなか自分が受け入れられなくて、なるべく視覚障害のことを周りに悟られないようにふるまったりもした。
自分自身を生きられない、受け止められない、
常に何かを隠して生きるというのはとてもストレスフルなことだ。

私の場合、もうどうしようもなくなって、
もう隠し通せなくなって、
そんなタイミングで、勤め先で自己開示の機会を頂き、講演もさせてもらった。
講演では、自分の状況と、これからどのようにしていきたいかを宣言した。

実際に自己開示をするまでは、不安も怖さもあって、今まで持っていたものを失うような気がしていたけれど、
自己開示してみると以前より過ごしやすい世界が拡がっていた。

今ふと思うのは、障害がなかったら、私は今何を求めて生きていたのだろう。

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周りにどう思われるか
それを気にして自分自身を生きない選択をしている人は多いと思う。
あるいは本当は自分が何を望んでいるのかわからなくて気づいていなくてそうしている人も多いと思う。

そこに至るまでには、
育った環境や育てられ方、
影響を受けてきた人からの言葉など
自分が何に価値を置いていたかによって様々だと思う。

この世に生まれてきた意味も目的もみんな違う。
備えられている装備も違う。
選んできた経験も違う。

だとしたら、自分と向き合うことに腹をくくるしかないではないかー!!
というのが、最近、腹くくり度合いをレベルアップした私の心の叫び。

自分自身を生きることが、自分を満たすこと=幸せになることへのメインロードではないだろうか。

 

私が実践した障害対応策④☆ 物理的なハード面とコミュニケーションのソフト面の両方で環境を整える。

目の見えづらさを補う目的で様々なツールがある。
移動時の安全確保をするための白杖
触って分かるように膨らみの形や数で文字を形成する点字
スクリーンを見なくてもマウスを使わなくてもキーボード操作でパソコン作業を可能にする音声読み上げソフト。
拡大したりコントラストを変えることで見やすさを高める読書機。
活字を読み上げるOCRソフト。
眩しさを軽減して見えやすさを高める遮光グラス。

仕事に限らず、調理などの日常生活を便利にするためのアイテムやスポーツやゲームを楽しむためのツールもある。
その他にも、テクノロジーの進化で今まではなかったようなアクセシビリティの高いアプリやデバイスが現在進行形で開発されている。
特筆すべきは、様々なアイテムが見えない・見えづらい人に特化するだけではなく、より広いニーズを満たすユニバーサルなものが増えていることだ。

仕事でも日常生活でも、物理的な環境を整えることで、できる を格段に増やせる。

そして物理的なハード面の環境を整えること以上に大切なことは、世間話のできる人を増やすこと。
これは家族などその人のごく身近な人や福祉介護専門職、あるいは特定の何人か、だけに留まらない。
公共交通機関で、お店で、日常的に通る導線で、社内で、近所で、
「何かお手伝いしましょうか?」
自分の時間を1分、これに使ってくれる人たちを増やすことだと思う。

待っているだけでは何も変わらない。
気持ちよく自分から挨拶をしてみたり、機会があれば自己開示をすることもよいかもしれない。
必要な時には自分からヘルプを求めることも大事だし、感謝を言葉にして伝えることも、次の機会をつくってくれる。
このソフト面の環境を整えることで自分の居心地と安心感が変わる。
逆にいくらハード面の環境を整えても、特に職場ではソフト面の環境が整わないと定着へのハードルがあがる。

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どのような場面でも、継続するには人間関係を整えることがキーとなる。
どんなにテクノロジーが進化しようとも 
職場でも、家庭でも、学校でも、習い事でも、
互いに心地よい・無理をし過ぎない関係性づくり・場づくりが整うと 続く ものなのかもしれない。

私が実践した障害対応策③☆ 強みを活かす。自分の好きと得意を発揮しよう!

見えづらさが増していくにつれて、今までのやり方できなくなることが出てきた。
やり方を変えたり、道具を変えたり工夫をすれば出来ることもあるし、
出来るけれど所用時間に以前の3倍かかることもあれば、
今の技術ではどうしても難しいこともある。

多くの人と同じ目の使い方ができる前提で組まれた今までの業務内容ではパフォーマンスの発揮が難しく、
休職期間中に、自分の知識とスキルアップをするのと並行して職場とも定期的に連絡をとり、
幸いにも復職後の業務内容についての組み直しをしてもらうことができた。

この時、業務内容を組む時に決めてとなったのが、
私のできること・得意なこと・興味のあること
だった。

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私の場合、身体的にどうしても不得手な作業が出てきたので、
ある意味、強制的に 自分の出来ること・特異なこと・興味のあること にフォーカスを置く必要に迫られた。
今まですんなりできていたことにものすごく時間がかかるようになったり、疲れを覚えたり、出来なくなってしまうことにはもどかしさも覚えるが、
できること・特異なこと・興味のあることに焦点をあてる機会を頂けたことはとてもよかったと思える。

みなさんはどうだろう。
苦手や嫌いという気持ちはあっても、トレーニングを積めばある程度のことは何でもできてしまうのではないだろうか。
苦手なことに時間をかけすぎていないだろうか。

特に組織の中で働いていると、苦手なことも業務内容に含まれることが出てくる。
それでも、
身体的に出来てしまうからやる。
それでお金を稼げるからやる。
特に日本社会はマイナスを埋めてplusに転じさせる努力をすることが是とされる風潮があるように思う。

日本の教育で、学生時代から集団生活を送り、
管理されたりシステム化された制度の中で診な同じようにまんべんなくできることがよしとされがちだ。
本来、人はみな違って、得意な領域と不得意な領域がバラバラであるように思う。

それぞれが自分の得意を発揮して補い合える方が
個人も組織も社会ももっと活き活きするだろうになぁと、それが私の理想だ。

 

私が実践した障害対応策②☆ 自分の状況を知る。 人に説明できるようにしよう。

知識とスキルを習得してQOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)を向上することを目的に、私は視覚障害を持つ人のサポート機関に通った。
そして、得られるであろう知識とスキルを活かすのにもっとも重要なベースを適切に持てていないことに気付くことが出来た。

そのベースとは、自分を知ること 自分の状況への理解である。
自分がどんな風に見えているのか、だからどんな風に目を使うと良いのか、適切な補助ツールは何でどれを選んでどんな風に使うのか。
これらがわかってくると、自分の見え肩をより深く知ることができ、人に説明できるようになる。

もちろん今までも眼科での検査は行っていた。
だが、眼科での検査は、どちらかといえば状態を確認する眼科医のための検査だったように思う。
病院で行われる検査を、実生活に照らし合わせて活かす・説明することが私にはできていなかった。

サポート機関では、様々な見え方の確認方法を時間をかけて行いながら、
目の動かし方を練習したり、実際の補助ツールをいくつか試し、自分に合うものを見当をつけながら、時間をかけて自分の見え方と向き合うことが出来た。
この時間のおかげで、自分のことを客観的に知ることができて、自分がどんな見え方をしているのか、人に説明できるようになったと思う。

視覚障害という経験は、世の中ではごく少数の人が持つ経験で、なかなか多くの人からの共感を得られにくい。他者から見て、よくわからないもの、なのだ。
経験の持ち主である自分にとっても よくわからないもの だと、照らし合わせる経験を持たない世の中の大多数の人にとってはますます よくわからないもの、なのだ。
そして大抵の人は、よくわからないもの、には近づこうとはしない。

私は人事で採用担当をしていたこともあるのだが、自分のことを人にわかりやすいように説明できること、実はこれは障害を持つ人の就職・転職活動でとても重要なポイントになる。
自分にとっても相手にとっても、よくわからないものを持つよりも、説明できるものを持っていた方が安心で、適切なサポートを受けやすい。

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自分の状況を知る

何が得意なのか・何ができるのか・何がやりたいのか

何が苦手/難しいのか

どんなサポートが必要なのか

自分の状況を人に説明する時には、イメージしてもらいやすいように例えを用いるのもいいかもしれない。
専門用語を使うよりも、多くの人にとってわかりやすい表現を用いることも重要だ。

困っている状況、大変な状況には目をそむけたくなることもあって、認めたくないこともある。
向き合わずに、逃げることも解決策の一つとなる場合もある。

もし状況を動かしたい、次のステップへ進みたい、抜け出したい、変えたいと思うのであれば、
状況を客観視してとらえたり、状況の説明ができることがその重要な第一歩となる。
誰かにアドバイスをもらったり手伝ってもらうのも一つの選択肢だ。

 

私が実践した障害対応策①☆ 餅のことは餅屋に聴く。専門家を訪ねてみよう!

見え方に不便さを感じることが増え、
自分の担当業務で以前よりも何倍もの時間がかかりダブルチェックをしてもミスが出てきてしまうようになった。
このまま仕事を続けるのは精神的にも状況的にも厳しいと感じた。
自分の過去の経験や、今までの知識、試行錯誤では、状況を打破できなかった。

私の頭に浮かんだのは、専門家を訪ねることだった。
餅のことは餅屋に、という例えがあるが、これは
その道のことはその道に専門的に携わる、その道に精通している人に頼るのがおすすめ、といった意味である。

視覚障碍者の生活やコミュニケーションにおいても、餅屋はある。

早速、移動、コミュニケーション、日常生活などを扱う視覚障害を持つ人のためのサポート機関に問い合わせ、場合によっては実際に訪問し見学を下。
その中で、時間、場所、環境、内容などそれぞれの特徴と自分の状況を照らし合わせ、お世話になる所を決めた。

勤務先は退職するつもりで上長と話を下。
結局私は勤務先を休職して、サポート機関で知識とスキルの習得をさせてもらうことができた。

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もうこれも振り返ると10年前の話。
今でも専門機関で集中的に時間を取れたことはとてもよかったなと思える。

相談先の相手も場所もたいていの場合複数ある。
相手も選べる。
場所も選べる。
タイミングも選べる。
自分で選んでいいのだ。

カンセラー、コンサルタント、当事者、先輩、弁護士、社会福祉士ファイナンシャルプランナーなどなど。
日本は国民的に第三者の相談先を利用するのに奥手なところがあると思う。

課題は誰にでもある。
自分じゃどうしようもできないことも当然ある。
壁にぶつかった時、困った時、
三者のその道の経験者や専門家に相談してみると大きな突破口になることがある。

 

障害とは? 人に付随する者? 社会に存在する者? それとも、○○が創り出したもの?

障害。
インターネットで検索したり辞書で調べれば、意味や範囲など色んな角度ですぐに調べることができる。

現在、多くの人がこの言葉でまずイメージするのは、人のことだろう。
私なりの表現を用いると、障害とは:
中長期的に、一般的に認識されるものとは違う生活様式を取り入れる必要がある心や身体の状態のこと。
原因は、病気やケガ、生まれつきの身体的特徴、生活環境など人によって様々。

障がいは次のように分類できる。
・見え方に関するもの 
・聴こえ方・バランスに関するもの
・言葉・声・食べ方に関するもの 
・手や足に関するもの
・内臓・内部機能に関するもの
・脳に関するもの 
・心・精神に関するもの

世の中では、これらを身体障がい・知的障がい・精神障がいの三つに分類している。

「障害」という言葉の中で"害"という漢字が使われていることに、嫌な気持ちになる方もいる。
まるでその当人がネガティブな存在かのようにもとらえられるから。
それで、この"害"の文字をひらがなで表す場合もある。

一方、この 障害、 障壁、 バリア は、社会や組織、環境や人と人との間にこそ存在しているものである、というとらえ方もある。
そう、現在の社会システムや精度・常識を創り上げてきたのが人であるならば、あらゆる障害を創り上げてきたのも人だといえる。
社会の中にあるバリアを小さくしていこう、という意味合いで、敢えて「障害」と表す場合もある。
このようにとらえてみると、障害は、当事者やその家族、関係者だけのものではなくなる。

英語で心身に障害を持つ人のことを「チャレンジド」と表現することがある。
挑戦する機会を与えられた人、というような意味合いだ。

今でこそ、私は、大人になってから視覚障害を持つ人生には大きな意味があり、むしろスペシャルでラッキーなこともあると思えることが出来るようになっている。
だけど、ここに至るまでには、劣等感を持ち、自信を無くし、悩み、不安になり、葛藤してきた経緯もある。
自分の人生の課題に向き合って経験してきたことが、他のどなたかの目の前の「悩み」「課題」「チャレンジ」「障害」をひもとくヒントになったら、
自分の生活や人生により主体的にいきいき取り組む人が増えたら嬉しい。

初めて湧いてきた気持ち:お風呂で身体を洗う時の「ありがとう」 

昨日、娘とお風呂に入って、娘の身体を洗っている時。
無意識に語り掛けている自分がいた。

「脚さん、今日もたくさんうごいてくれてありがとう~。どんどん動ける範囲が広がっていろんな所に連れて行ってくれるね~」
「おなかさん、食べ物を消化してくれてありがとう~」
「お尻さん、うんちやおしっこを出してくれてありがとう~」
「皮膚さん、今日も守ってくれてありがとう~」
「首さん、頭をしっかり支えてくれてありがとう~。口に入れた食べ物を届けてくれてありがとう~」
・・・とこんな具合。

途中から我に返って、意識的に語り掛け始めた。
そして、娘が元気でいてくれることは有難いけど、
その前にこんな風に自分の身体をねぎらいながら洗ったことがあったっけか?
とさらにされらに我に返った。

作業で身体を洗うより
自分の健康と疲れ具合をを自分で確認しながら
なんなら声に出して語り掛けた方が自分の現状により意識が向くだろう。
身体は資本。

娘の健康も有難く大切だが、
まずは自分の器に感謝できる自分でありたい。